組合歴史
大阪鋲螺工業協同組合の歴史
戦前―工業組合以前の任意団体の時代
当組合の萌芽となった団体は昭和7~8年頃、大阪市港区(現在の九条地区を 含む)、大正区、此花区等で操業していた加熱鋲螺製造業者が集まってつくってい た親睦団体である。この団体は後にはフレキションプレスや無煙炭の購入斡旋等 も行うようになり、大阪ボルト会とか同業会等と称し、山口欽造・樋口正一らが 中心になって会を運営していた。昭和11年には、会員もふえて30名を越えるよう になり、新型機械を導入、ナットの共同生産に乗出し、会の名称も「大阪ボルト・ ナット同業組合」とし、来田柳吉が工場責任者となり、場所は境川の近くにあった。 この組合が次に述べる「大阪加熱鋲螺釘工業組合」の母体である。
戦中(前半)工業組合の時代
昭和12年7月、日中事変勃発により我が国は戦時統制経済に移行した。そして 特に鉄鋼材料は軍需品のさいたるものとして、早くから統制の対象とされ、その 末端配給機構として工業組合が利用された。 昭和13年7月、戦時中の緊迫した情勢の下に、「大阪加熱鋲螺釘工業組合」が発 足した。“鉄が配給制になるだろう”という声によって、全国各地に工業組合が設立された。東京では関東鋲螺釘工業組合や関東加熱鋲螺釘工業会が、西の方では 兵庫県鋲螺釘工業組合等が設立された。 なお、大阪地区では前記“加熱”組合の他に次のような品種別組合が誕生した。
組合名 | 理事長 |
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大阪平鋼製ナットエ業組合 | 御薬袋勝 |
大阪丸製ナットエ業組合 | 三宅孝之助 |
大阪鉄製抜ナットエ業組合 | 白山好人郎 |
大阪丸角座金丁業組合 | 樫原左七郎 |
大阪地区のこれ等五つの丁業組合はやがて“加熱”組合を中心に一本化の方向 に進み、昭和14年名称が変更され「大阪鋲螺釘丁業組合」となた。この組合は組 合員総数186名の大人数で、初代理事長には樋口正一が就任した。 昭和16年12月8日、大東亜戦争が勃発、同年9月には、国家総動員法に基づく 勅令831号によって重要産業団体令が施行され、統制組合制度が創設、更に昭和18 年の商工組合法により、既存の工業組合はすべて統制組合に改組されることにな り、鋲螺釘工業組合も同様の道を辿ることになった。
戦中(後半)工業組合の時代
昭和19年7月、近畿加熱鋲螺釘丁業統制組合発足。理事長には付上平一が就任。 しかし、昭和20年8月15日の終戦により統制組合も終わりを迎え、下記のようにして解散された。
昭和20年12月17日 | 商工大臣による解散命令 |
昭和21年6月29日 | 解散総会における解散決議 |
昭和21年7月13日 | 大阪府知事田中広太郎へ報告 |
昭和23年11月16日 | 精算結了 |