組合歴史
西部製線鋲螺工業協同組合の歴史 -草創期-
日本のねじ製造業は、明治維新(1868年)以降の殖産興業政策の始まりとともに、徐々に産業化の歩を進めることになった。
大正・昭和戦前期我が関西地区では生駒山西麓・東大阪市(旧枚岡市)の伸線業を背景に、同市(布施・高井田地区)や、大阪市東成区(深江地区)を中心として冷間製リ ベット・釘・小ねじ・ボルトなどのねじ産地が形成されていった。
こうして昭和7年(1932年)には、リベットメーカーを主体に大阪製鋲倶楽部(会長森川寛治氏、会員約20名)が結成された。次いで昭和13年(1938年)、鋲螺・特殊釘両業種を併せて大阪生押鋲螺工業組合(理事長大森光太氏、組合員60工場)が発足した。
その後、15年7月、同組合が分かれて大阪製線鋲螺工業組合(主として製線設備を有する大工場)と、関西鋲螺工業組合(大部分が製線設備を有しない中小工場。理事長大源正行氏-友安唯一氏、組合員約50工場)の二組合となる。
さらに18年には東京都に日本製線鋲螺工業統制組合(理事長友安唯一氏)が設立され、大阪に関西支部を置き、約20業者に整理統合された。終戦とともに日本製線鋲螺工業統制組合は解散せられ、新しく昭和21年2月、愛知県以東を除く西部各地域をもって西部製線鋲螺工業組合(理事長山下信三氏、組合員38社)を結成した。
さらに22年5月24日、同工業組合を「商工共同組合法」(21年12月1日施行)に基づき、西部製線鋲螺工業協同組合(理事長山下信三氏、日本製線(株)社長)に改組。
これが当組合の戸籍上の出発点である。
しかし23年10月、同協同組合は新しく公布された「事業者団体法」に抵触するところがあると解されたので、新たに西部製線鋲螺工業会(代表山下信三氏、任意団体)に切り換え、当協同組合は工業会 内に事業休止のまま存置されることとなった。
その後、事業休止のままであった当協同組合は25年2月1日、工業会会員の希望により「中小企業等協同組合法」(24年7月1日施行)に基づき事業を再開し、再発足することとなった。(理事長宮川道之助氏・宮川金属工業(株)社長)
この間、当組合は材料の割当斡旋、公定価格の作成に参画するなど、組合員の企業経営の根幹に係わる重要施策にタッチし、「黄金時代」を画した。